青春シンコペーションsfz


第3章 音楽祭の魔物(3)


「どういうこと?」
キッチンの奥まで行くと、ハンスが先を促した。
「一昨日からずっと様子が変なのよ。憂鬱そうにしているし、食欲もないみたいで……」
美樹は少し考えるように言った。
「それじゃわからないですよ。単に風邪気味なのかもしれないし……」
「そうだけど……。卵焼きやごはんが炊けるにおいが気持ち悪いって言うの。それで、昨夜はスープとサラダしか食べなかったのよ」
「ああ。彼女夕食の時姿を見せなかったのはそういう事でしたか」
昨夜の事を思い出して彼が頷く。

「でも……僕だってそういう事ありますよ」
ハンスにはどうしても納得がいかなかった。
「それだけじゃないの。夜中に急にお腹が空いたと言うから、リンゴとカステラ持って行ってあげたの」
「え? そうなの? 僕も欲しかったな。カステラ」
「もうっ。茶化さないで。欲しいならまだ戸棚にあるから……」
「わかりました。でも、どうして君は彩香さんが妊娠してるって思うの?」
彼にはその過程がよく理解出来なかった。
「だって、わたしにも経験あるから……」
そう言うと彼女は軽く目を伏せ、花瓶のコスモスを見つめた。彼女は過去に妊娠を経験していた。結果的に子どもは流産してしまったのだが、その傷が今も癒えていない事は、ハンスも承知していた。

「妊娠初期の頃って自分でもほとんど意識してないんだけど、ある日突然食べ物のにおいが気になって気持ち悪くなったり、急に底が抜けたように空腹を感じたりする事があるの」
美樹が説明していると、グラスを取りに来た黒木が足を止めた。
「妊娠って、美樹さん、ついにおめでたですか?」
教授は悪びれずに笑顔で尋ねた。
「いえ、違うんです。わたしじゃなくて……」
美樹が言い淀んでいると、脇からハンスが言った。
「いけません。僕ら、そういう関係してないですよ」
黒木は、二人が毎夜同じベッドで就寝している事を知っていたが、あえて言及は控えた。ならば、妊娠したのは誰なのかと教授は訊いた。美樹は困ったように俯いたが、ハンスはあっさりと彩香の事だと認めた。

「そんな……。相手は誰なんです? まさか井倉じゃ……」
教授が渋い顔をする。
「僕にはわかりません。でも、1番可能性あるのはやっぱり井倉君かもしれないです」
ハンスが言った。
「そうですよね。あれは彩香君の事を好いておったし……」
3人の間に気まずい沈黙が流れた。
「彩香君はお預かりしている大事なお嬢さんですからな。もし、こんな不始末が有住の父親に知れたら……」
黒木が頭を抱える。

「でも、まだ確証はないんです。直接本人から訊いた訳でもないし……」
言い訳するように美樹がぼそぼそと呟く。
「だったら、僕が訊いてみるですよ」
行こうとするハンスの腕を掴んで美樹が止めた。
「駄目よ。こういう事はデリケートなんだから……。それに、もしかして本人だってまだわかっていないかもしれないし……」
慌てて説明を加える。
「お腹に赤ちゃんがいるのに、本人がわからないって事あるんですか?」
ハンスが驚いて、その顔を見つめた。
「そりゃ、はじめのうちはね」
美樹が言う。
「それにしても困った」
黒木は天井を見つめて呟いた。そこへフリードリッヒがやって来て声を掛けた。

「どうしたのです? 皆が来ないからヘル ルークが心配なさっていますよ」
「それどころじゃないんだ。彩香さんが……」
ハンスが言い掛けたが、美樹が慌てて止める。
「駄目! 言ったでしょう? まだはっきりしていないんだから……」
「わかりました。フリードリッヒ、この件はまだ、おまえには話せない」
それを聞いた彼は抗議した。
「私に話せないとはどういう事なのだ? 君はさっき、彩香さんがどうとか言い掛けていたではないか。彼女は私の大切な弟子の一人だ。師匠の私には知る権利がある」
「でも、今はまだよくわからないんだ」
ハンスが言った。

「では、いつになったらわかるんだ?」
「それは……」
彼は困ったように美樹の方を見たが、彼女は黙っていた。すると、黒木が脇から口を挟んだ。
「いや、もしそういう事なら、レッスンとかであまり無理をさせる訳には行かないぞ。これはフリードリッヒにも知らせておいた方が……。何といっても彩香君の身体の事が心配だからな」
黒木がドイツ語で耳打ちする。訊いたフリードリッヒはオーバーに驚いてハンス達を見た。
「それは本当か? 何てことだ。あの真面目そうな井倉君がそんな……。私はショックを隠せないよ」
「だから、まだ確証はないんだ。井倉君にも彩香さんにも内緒だからな」
ハンスが念を押す。
「わかった。しかし……」
その時、藤倉が顔を出して言った。
「早く来てくださいよ。私の片言の通訳では限界なんです。井倉君も困ってますし……」
「わかった。今行く」
皆、ぞろぞろとリビングの方へ戻って行った。

リビングでは一人残った井倉にルークが熱弁していた。
「それで、演奏が終った時、私は尋ねたのだ。不治の病の少女はどこにいるのかねと……」
彼は一応日本人達に気を使って英語で話すのだが、ところどころドイツ語やハンガリー語も混じるので、意味を全部拾うのは困難だった。
「不治の病?」
ハンスが聞き返した。
「ルークさんが今回、来日したのはその少女の願いを叶えるためだったのだそうです」
藤倉がそれまで聞いた事をざっくりと説明する。
「少女はルークさんのファンで、どうしても死ぬ前に彼の弾く『ため息』の曲を生で聴きたいという事で、理事長が連絡して来たのだそうですよ」

皆はその話を聞いて顔を見合わせた。
「それで、その少女は聴く事が出来たのですか?」
黒木が訊いた。
「それが、会場に来る直前になって急に具合が悪くなったとかで、今日は来れなかったと言うのです。実に残念だ。私もその少女に聴かせるつもりで来たのでね。私自身、病であまり長くは演奏する事が出来ないんだ。だが、1曲だけならという条件で来日したのだよ」
「そうだったんですか」
皆が頷く。
「せっかくその子のために遙々日本まで来たのだ。それなら、ぜひとも、その少女のお見舞いに行かせて欲しいと頼んだのだが、何故だか病院を教えてくれないのだよ。君達知らないかね?」
ルークが皆を見回す。
「いえ、残念ながら……」
黒木が言った。

「そんな美談なら週刊誌の記者達が飛びつきそうですけどね」
藤倉も言った。
「それってそもそもほんとなのかな?」
ハンスが疑うように日本語で呟く。
「理事長の連絡先なら私が知っています。私の方から連絡してみますよ。あとどれくらいご滞在の予定ですか?」
黒木が尋ねた。
「私も日本は初めてなのでね。2、3週間はいるつもりだ。ちょっと観光もしたいのでね。それにあまり短期間のうちに飛行機に何度も乗るのは気圧の関係もあって勧められないと医者が言うのだよ。急に環境が変わるのは良くないというので、旅行もゆったりと日程を組んでいるんだ。妻もゆっくり買い物がしたいと言っているから丁度良かったのだがね」
「ああ、奥様もご一緒でしたか」
黒木が言うと、ルークは慌てて携帯を取り出した。
「ああ、そうだ。うっかりしていた。音楽会が終わったら連絡してくれと言われてたのに、また忘れてしまった。ちょっと失礼。妻に電話しなくては……」
ルークは少し離れて電話を始めた。

残された者達はそれぞれに考えを巡らせていた。
そして、さり気なく井倉の方を見たり、慌てて視線を逸らしたりした。
(どうしたんだろう。何かみんなから見られてるような……)
不審に思ったが、誰も何も言わないので気まずくなった彼が美樹に話し掛けた。
「ところで、彩香さんの様子はどうですか?」
「やっぱり先に休むってお部屋に戻られたの」
美樹が応える。
「そうですか。何だか顔色もよくなかったみたいだし……。彼女、具合でも悪いのかなあ」
井倉が呟く。
「ここのところずっと外に行く事が多かったから疲れが出たのかもしれないけど……」
彼女は少し周囲を気にして言った。
「じゃあ、やっぱり風邪ですかね。ホールも冷房かなり効いてたし、外の温度とのギャップがあるから……。それとも熱中症とか……」
心配そうにあれこれ言う井倉に、ハンスが言った。

「多分、そうじゃないですよ」
「何でわかるんですか?」
「だって、彩香さんは病気じゃないって美樹ちゃんが言ってたもの」
井倉とハンス、二人に見られて彼女は慎重に言葉を選んだ。
「そうね。熱もないみたいだし、やっぱり疲れが出たのだと思うの。もう何日かすればはっきりすると思うんだけど……」
「そうか。彩香ちゃんもここのとこずっとテレビの収録とかで忙しかったし、休養する事が大事かもしれませんね」
納得したように井倉が頷く。

そこに電話を終えて戻って来たルークが言った。
「申し訳ない。私は戻らないといけない。妻がうるさくてね。だが、ホテルの場所がわからないんだが……。妻も日本の事詳しくないので、ここがどこか説明出来なくて……」
「ホテルはどちらです?」
黒木が訊いた。
「確か赤坂の……」
彼は手帳に書き込まれたホテルの所在地を見せた。
「ああ。それなら、私の方向と一緒です」
藤倉が申し出た。
「もし私でよろしければ、ホテルまでお送りしましょう」
「ああ、助かります。それはぜひお願いします」
ルークは喜んで礼を言うとハンスの方へ向き直った。
「ルイ、今度はゆっくり会おう。もっと君やご両親の話を聞かせておくれ」
「そうですね」
二人は握手すると互いの連絡先を交換した。
「では、その少女の事はわかり次第、ご連絡します」
黒木も言った。
「お願いします。それではまた」
ルークはそこにいた全員と握手し、言葉を交わすと、藤倉と一緒に玄関を出て行った。

「不治の病の少女ですって? 本当でしょうか? ちょっと話が出来すぎていませんか?」
疑わしそうにハンスが言った。
「そうだな。第一に、入院先の病院を教えないなんて怪しい」
黒木も言う。
「いくら何でもそれはないんじゃないでしょうか? もしも、それが嘘の話だったら酷いですよ。人の善意を利用してそんな……」
井倉がまさかという顔をした。が、黒木はそれを遮って言う。
「あの理事長ならやりかねん」
「何という事だ。もしその話が事実なら許しがたい暴挙だ」
フリードリッヒも非難する。

「アーニーおじさんはいい人だけど、もしそれが作り話だとわかったら、きっと激怒しますよ。彼、そういうジョークは嫌いだから……」
ハンスが言う。
「そ、そんな……困るじゃないですか」
井倉が動揺して言う。
「いや、困ったのは別の事だ」
教授はじっと井倉を見つめ、何か言いたそうにしていたが、やがて諦めたように目を伏せた。
「あの、僕が何か……?」
戸惑ったように井倉が尋ねる。
「いや、いい。何でもないんだ」
黒木は片手を上げて言うと視線を逸らした。そこに丁度やって来た黒猫を抱き上げ、頭を撫でた。

「じゃあ、僕は片付けて来ますね」
テーブルの上にある食器を重ねる井倉。
「あら、いいのよ。今日は井倉君のためのパーティーだったんだから……」
その手を美樹が止める。
「いえ、すごく気分がいいから、お手伝いしたいんです。やらせてください」
「でも……」
彼女が困っていると黒木が抱いていた猫を下ろして言った。
「私も手伝うよ」
そうして3人はグラスや皿を持ってキッチンに運んで行った。

「私にはまだ信じられないのだが、本当なのか?」
フリードリッヒが井倉の背中を視線で示す。
「僕だって信じられないよ。あの井倉君がそんな……。でも、チャンスはあった。おまえがドイツに帰った日、あの二人外泊したんだ」
夜だというのに、外ではまだ蝉の声が響いている。
「駆け落ちだっけ?」
ピアノの上に飛び乗ったピッツァを抱え、フリードリッヒが言った。
「いや、それはしなかったんだけど、ホテルに一泊して、朝帰って来た。それだけじゃない。彼らは狭い地下室に閉じこもってワインに酔ってた事もある。朝、僕が見つけた時には二人とも意識がない程酔っていて、しかも下着姿だった」
「何だって?」
フリードリッヒは白猫の頭を撫でると、そっと床に下ろしてハンスを見た。
「それで何もなかったと言えるだろうか?」
ハンスが真面目な顔をして言う。

「それは……何もなかったとは言いがたい状況だな」
フリードリッヒは難しい顔をして腕組みをした。
「おまえもそう思うか?」
「君と美樹さんならどうかわからないが、井倉君は立派な大人だからね」
「どういう意味だよ?」
ハンスは憤慨したが、フリードリッヒは構わず続けた。
「それに何より井倉君は彩香さんの事が好きなのだろう? 私にもわかるくらいだからね。そんなチャンスを逃すとは思えない」
視線の先では2匹の猫がじゃれ合っている。
「へえ。おまえならチャンスは逃さないって?」
「当然だ。だが、事はあくまでも紳士的に行われなければならないがね」
「井倉君も紳士的だったと思うよ」
ハンスが笑う。
「それはそうだろう。彼が野獣化するとこなんて想像がつかない」

「あーあ。僕も野獣化しちゃおうかな?」
そう言ってハンスが手を光りに翳し、爪の光沢を見つめる。
「おい、待て、ハンス。私にはまだ心の準備が……」
「誰がおまえを襲うと言った」
軽くフリードリヒの胸を突くとハンスが言った。
「何だ。君、美樹さんと上手く行ってないのかい?」
からかうようにフリードリッヒが言う。
「彼女はいつも忙しいんだ」
憮然としてハンスは壁に掛けられた森の絵を見た。
「それで欲求不満なのか?」
「黙れ。これ以上一言でも言ってみろ。コンサートツアーなんか即刻キャンセルしてやるからな」

「それなら、ティンカーペルの下半身は渡さない」
「卑猥な言い方はよせ! 単なるメモリーカードだ」
ハンスは苛ついていた。
「だが、君に、いや君達にとっては大切な物なのだろう?」
フリードリッヒが愉快そうに笑う。
「……汚い奴め。それで僕にコンサートツアーに出る事を承知させたのだからな」
「データは本物だったろう? 私だって知らなかったんだ。まさか私のピアノの内部にそんな物が隠されていたなんて……」
「まったくだ。思いもつかなかったよ。だけど、それでルドルフは喜んでるよ。これで失われたデータが完璧に揃うかもしれないってね」

「私にそのデータの価値はわからない。だが、それと引き替えに君はツアーに参加すると言った。ならば、渡したくないな。そうすれば、君はずっと私とツアーを続けられる。日本が終わったら、次は世界だ。なあ、そうしないか?」
フリードリッヒが熱い視線を向ける。
「日本ツアーが終わるまでだ。そこで渡さないと言うなら、奪うだけだ」
「それ程大事な物なのか?」
「そうだ」
部屋の中にはエアコンから吹き出した冷風が二人の間を巡回している。
「だったら、惜しい事をした。もっといい使い方を思いつけばよかったな。本当に残念だ」
視線を落としてフリードリッヒが述懐する。
「ぎりぎりの妥協点だ。欲を出せば身を滅ぼすぞ。おまえだって長生きしたいのだろう?」
「ああ。私とて、少なくともリストの歳くらいまでは生きたいと願っている」
「だったら、大人しくしているんだね」

「井倉君の事はどうする?」
「どうするもこうするもないさ。出来てしまったものは仕方が無い。産むなら育てるしかないだろう。でも、心配ないよ。いざとなれば、僕が引き取って育てる」
「そういう問題じゃないと思うが……」
フリードリッヒがため息交じりに言う。
「じゃあ、どうすると言うんだ? これからピアニストとしてデビューしなきゃならないのに、子育てするなんて若い二人には重荷だろ?」
「驚いたな。ハンス、君の口からそんな言葉が出るなんて……」
「勝手に驚いていろ。僕は真面目だ」

そこに井倉が戻って来た。
「あれ? 先生方、どうしたんですか? 立ったままで……。コーヒーでも、お飲みになりますか?」
「いや、今はいいよ。ありがとう」
フリードリッヒが断った。
「僕もいらないですよ。そんな気分じゃないし……」
ハンスも言う。
「それよりね、井倉君、ちょっと訊きたい事あるですよ」
ハンスが囁くように言った。
「何ですか?」
井倉も自然と小声になる。
「君、彩香さんとやってしまったですか?」
井倉は一瞬何を言われたのかわからずに師匠の顔を見つめた。

「正直に答えてくださいね。これはきわめて重要な事です」
「やってしまったってあの……どういう意味ですか?」
井倉は面食らって訊いた。
「つまり、君も蝉さんのように交尾してしまったのかということですよ」
「え?」
井倉は瞬間的に顔が赤くなるのを感じた。
「そんな事……」
「答えられないですか?」
ハンスが言った。
「いえ。でも、その……」

「言ったでしょう? これはきわめて大事な事なんです。それに、今は僕達しかいません。本当の事を答えてください」
何故彼がそんな事を尋ねて来るのか井倉には見当がつかなかった。
「本当の事と言われましても……。僕には覚えがなくて……」
「覚えてないって事は、やはりあの地下室にいた夜ですか?」
井倉は困惑した。しかし、師匠達に挟まれて、何と言って反論したら良いのかわからなかった。すると、ハンスが続けた。
「前にも君はあの日に何があったのか、よく覚えていないと言っていました」
「でも……。僕は本当に何も……」
井倉が答えに窮していると、それまで沈黙していたフリードリッヒが訊いた。
「ちょっと待て、ハンスそれはいったいいつの事だい?」
「確か7月の終りの頃でした」
「それじゃあ、いくら何でもつわりが出る時期が早過ぎないか?」
フリードリッヒはドイツ語を使っているので、井倉には必ずしも意味が理解出来なかった。

「そんなの人によって違うかもしれない」
ハンスが答える。
「あの、ちょっと待ってください、先生。どうしてそんな事訊くんですか?」
井倉は何となく不安になって訊いた。
「それは……」
二人が顔を見合わせる。
「ここははっきりと既成事実がある事を告げた方がいいんじゃないのか? そうしなければ、彼もいつまでも事実を認めないだろうし、うやむやにして逃げようとするかもしれない」
「それもそうだな」
フリードリッヒの意見にハンスも同意した。

「井倉君、気を落ちつけて聞いてくださいね。彩香さんは妊娠しているのです」
「え?」
「そう。赤ちゃんが出来たですよ。だから、訊いているんです。僕達は別に君を責めている訳ではありません。愛し合う男と女がいれば、それは十分にあり得る事です。でも、君達はまだ若い。いろいろと問題もある。だから、僕達が協力しましょうと言っているのです。だから、安心して正直に言ってください。彼女とそういう事があったのかどうかを……」
「ありません」
井倉はきっぱりと否定した。

「確かに、あの夜の事は覚えていないと君は言った。でも、僕は覚えています。あの夜、君達は酔っていました」
「でも……多分そういう事にはなっていないと思うんです」
井倉は必死に弁解した。
「何故、そう言い切れるですか?」
「だって……」
(彩香ちゃんが妊娠してるだなんて……そんな……。先生は疑ってるみたいだけど、僕じゃない。確かにあの夜は酔っていて、あまり記憶はないけど、違う。僕は何もしていないんだ)

「だったら、何故彼女が妊娠しているのでしょう?」
ハンスが訊いた。
(そうだ。だったら何故……? まさか僕以外の男と……。いやだ! そんな事認めたくない。でも、彼女は美人だし、いろんな人にもてていた。僕なんかよりずっといい男だっていた筈だ。誰だかわからないけど……。そんな誰かと……誰かと……!)
井倉の胸は張り裂けそうだった。
「彩香さんが……そんな……そんな事……!」
拳が震え、涙が滲んだ。

そこに黒木が来て訊いた。
「どうしたんです? そんなところに固まって……」
涙を流している井倉を見て教授は得心がいったように頷く。
「彩香さんの事か?」
黒木の問いに、無言で頷く井倉。その肩をそっと掴んで教授が言った。
「そうだろうとも。わかっている。だから、落ち着きなさい。悪いようにはしないから……」
「違…うんです。僕は……」
(やってなんかいないんです。僕にとって彩香さんは大切な……。まだ結婚だって……。その人にどうしてそんな事が出来ると言うんですか? 僕は知らない。本当です。僕はやってないんだ!)
井倉はそう叫びたかった。が、その思いは喉に詰まって出て来なかった。

「あら、こんなところに雑誌が落ちてる。誰か見てるの?」
あとからやって来た美樹がテーブルの下にあった本を拾って訊いた。
開かれたままのその記事は生方響のインタビューだった。
そこには最近、番組で競演している彩香の事にも触れられていた。それには一方的に響が彼女にアプローチしたがっているという内容が書かれていた。美樹はハンスの腕を引っ張ってそれを見せた。
「もしかして、彩香さんの憂鬱ってこの生方って子の方だったりして……」
「え? それってもしかして彩香さんの相手が井倉君じゃないかもしれないって事?」
「まだ出会ってからそんなに経っていないからちょっと信じられないけどね」
「わかりませんよ。僕は出会ってすぐに君が欲しくなりました」
「もう、すぐにそういう事を言う」
美樹が困った顔をする。

「井倉君は違うって言うし……。じゃあ、本命はこっちですかね?」
「わからないけど……」
その日は井倉にとっては受難の日だった。
(まるでジェットコースターみたいだ。天国から地獄へ、そしてまた天国へ……上ったかと思ったらまた急降下。もう、僕はどうしていいのかわからない)